LOGIN昼を過ぎた午後一時、美術館地下一階の特別企画展示室。絵奈は作業用ガウンを着て、大型油彩の設置位置を確認していた。傍らのドセントたちも動線を眺め、作業を見守る。
「三番壁面のルネサンス、左へ二センチだけ動かしてください。水平も一緒に。私が上がってワイヤーの張力を見ます」
二メートルのアルミ梯子を慎重に登った。午前の氷缶テロのあと、泰輝が応接室を飛び出し給湯室を襲ったときには、すでに絵奈はいなかった。咳払いとともに伝わってきた冷たい殺気を思い出し、絵奈は心の中で快哉を叫んだ。
『傲慢な財閥三世なら何でも許される? 私を下女扱いして』
梯子の頂上で両手を伸ばし、重い額縁を支えていたまさにその瞬間。壁一枚を隔てた地下一階VIP専用フィットネス。展示室との距離は七メートルほど。
ジャージ姿の天城泰輝が巨大なスクワットラックの前に一人で立っていた。肩の上には鉄のオリンピックバー、両脇には巨大なプレートがびっしり。総重量百四十キロ。
「神崎絵奈。よくも俺のズボンに紅茶を零させたな」
口角が殺伐とし
午後八時、広尾のペントハウス。殺伐としたオフィスバトルを終えて戻った室内には、息が詰まる薄氷の緊張が漂っていた。泰輝のひどいスクワット報復のせいで、絵奈は午後中ずっと太腿が重く締まる筋肉痛に耐えていた。泰輝も、絵奈が退勤直前に書類をステープラーで綴じるたび指先を抓むささやかな反撃のせいで、帰宅してからも神経が逆立っていた。「先に洗います」絵奈がゲストルームの扉を開け、そっけなく吐き捨てた。ソファに腰を下ろし、タブレットで海外支社の報告を繰っていた泰輝が、冷たく顔を上げる。「覚書第二条は忘れたか。始める前に、互いが平気か確認すると決めたはずだ。今すぐ、とだけ投げて入るつもりか」「一日中汗をかいて埃をかぶって、シャワーまで決裁が要るんですか。十五分で終わらせます。構わないでください」返事も待たず、浴室の扉を強く閉めて鍵をかけた。昼に受けたスクワットの屈辱を思えば、どんな配慮もしたくなかった。汗に濡れたブラウスとスカートを脱ぎ捨て、シャワーブースへ入る。温かい湯が落ち、重たかった肩と太腿の筋を柔らかく弛める。ボディスポンジに薔薇のボディウォッシュをたっぷり出し、豊かな泡を立てた。白い柔らかい泡を、首筋と鎖骨、胸、そして太腿の内側の内密な肌へ滑らせるように擦り始める。泰輝はリビングの全面ガラスの向こうの夜景を背に座り、タブレットへ視線を固定していた。だが昼のスクワットの後遺症で下半身はまだ鈍い疲労に浸り、絵奈との気の張り合いで神経は逆立つだけ逆立っていた。『十五分で終わらせる、だと』時計を確認する。十五分という言葉を覚えておき、タブレットへ目を戻した。ブースから水が落ちる音が、リビングまで微かに響いている。雑念を払い、英文契約の条項を読もうとした。だがまさにその瞬間、リビングの冷たい空気が一瞬で蒸発するように、全身へ熱く湿った熱が押し寄せた。ソファに座っていた泰輝の手から、タブレットが床へ乱暴に落ちる。――ドン。「……くッ!?」押し殺した猛烈な嘆きが漏れた。いきなり全身の感覚神経が、煮えたぎる湯にどっぷり浸か
昼を過ぎた午後一時、美術館地下一階の特別企画展示室。絵奈は作業用ガウンを着て、大型油彩の設置位置を確認していた。傍らのドセントたちも動線を眺め、作業を見守る。「三番壁面のルネサンス、左へ二センチだけ動かしてください。水平も一緒に。私が上がってワイヤーの張力を見ます」二メートルのアルミ梯子を慎重に登った。午前の氷缶テロのあと、泰輝が応接室を飛び出し給湯室を襲ったときには、すでに絵奈はいなかった。咳払いとともに伝わってきた冷たい殺気を思い出し、絵奈は心の中で快哉を叫んだ。『傲慢な財閥三世なら何でも許される? 私を下女扱いして』梯子の頂上で両手を伸ばし、重い額縁を支えていたまさにその瞬間。壁一枚を隔てた地下一階VIP専用フィットネス。展示室との距離は七メートルほど。ジャージ姿の天城泰輝が巨大なスクワットラックの前に一人で立っていた。肩の上には鉄のオリンピックバー、両脇には巨大なプレートがびっしり。総重量百四十キロ。「神崎絵奈。よくも俺のズボンに紅茶を零させたな」口角が殺伐とした弧を描き、残酷に上がる。「その体で、代償を骨の髄まで味わえ」深く息を吸い、百四十キロの鉄塊を背負ったまま深くフルスクワットで沈み込んだ。大腿四頭筋と臀筋、ハムストリングが裂けるほどぴんと収縮し、下半身全体に途方もない荷重がのしかかる。その殺人的な筋肉の悲鳴が、そのまま絵奈の体へ直撃弾のように飛び込む。――ドン。「あ、あっ……!?」梯子の上で額縁を掴んでいた絵奈の口から、裂ける悲鳴が漏れた。一秒の前触れもない。いきなり両太腿に巨大な鉄塊を載せて押し潰すような猛烈な荷重が、骨盤と膝関節を容赦なく折った。脚の筋が一斉に麻痺し、小刻みに震え始める。「神崎さん!?」「梯子が揺れてます! 気をつけて!」下にいたドセントたちが梯子を支え、驚愕の声を上げた。だが絵奈に答える余裕はない。下腹と太腿の内側が引き裂かれるようなひどい筋肉痛が嵐のように押し寄せる。一、二、三……。泰輝
午前十一時、天城財団美術館二階のVIP応接室。統括理事・天城泰輝は、主要スポンサー企業の代表と海外パートナーの幹部四名とともに、ガラのスポンサード調整ミーティングを主宰していた。「今回の財団三十周年特別展は、アジア美術界でも類を見ないメガイベントになります。スポンサーブランディングも最高等級の礼遇で……」流麗な話術と冷たいカリスマで一座を完璧に圧していた。テーブル向かいのスイス系プライベートバンク日本支社長は、何度も頷き、感嘆を連発する。「さすが天城の次期当主だ。理事の卓越した審美眼と攻撃的な企画力なら、今回のガラは成功を確信できます」「恐縮です、支社長。今回のプロジェクトは単なる展示を超え、東西の古代芸術の精髄を社交界へ示す場になります」相手が頷くのを見て言葉を継いだ。口元の笑みと裏腹に、肩の力はなかなか抜けない。朝から絵奈と交わした言葉が、会議の最中にもふと浮かぶ。テーブルの上には英国王室御用達ブランドの高級磁器カップと、湯気を立てるアールグレイが置かれていた。***同じ時刻、応接室の真下。一階下の学芸室給湯室。絵奈はシンクの前に立ち、天井を険しく見上げていた。朝から一分単位で小言を浴びせ、罪人を監視するように傲慢に振る舞った泰輝の態度が頭を離れない。「自分が何様よ。準備は五分でしろ、息も慎重にしろ。人を何だと思ってるの」歯を噛み、冷蔵庫を開けた。視線が冷凍室の隅に置かれたアルミ缶コーヒーの一つに釘付けになる。白い霜がついた、カチカチに凍った缶。瞬間、絵奈の頭に稲妻のように悪魔じみた着想が走った。『事前承認なき刺激は禁止、だって?』缶を握った手を見下ろす。一瞬迷った指が、冷たい表面を再び包んだ。『大企業の後継者の体面がどれほど大したものか、見せてもらおうか』缶を手放さなかった。短い迷いを切り、薄いHラインスカートの裾をそっとまくり上げる。白く滑らかな太腿のいちばん内側、肌がいちばん柔く敏感な付け根あたりへ、凍りついた缶の冷たい底を一気に押し当てた。――チイイイッ。
日付を越えた、広尾の最高級ペントハウス。都心の騒音が完全に遮断された室内に漂うのは、窓を打つ冷たい夜風だけだった。複層階段の下、マスタールームとゲストルームの直線距離はおよそ六メートル。壁一枚を隔てた安全圏の内側だったが、絵奈はベッドに横たわり、一秒も目を閉じられなかった。「はあ……本当に頭がおかしくなりそう」綿の寝間着を首まで閉め、寝返りを打つ。先の解除試みの逆流反動で感度がさらにになった体は、些細な刺激にも過敏に反応した。さらに悍ましいのは、六メートル向こうの壁の内側から伝わってくる、泰輝の仄かな体温と呼吸の波動だった。彼がベッドの上で長い脚を伸ばし、シートを擦るたび、薄い綿のズボンが絵奈の太腿の内側を荒く掻くような錯覚がする。――するり、さわり。「んっ……」反射的に脚を閉じ、唇を噛んだ。まさにその刹那。――コン、コン。二つの部屋を隔てるコンクリートの向こうから、神経質なノックが響いた。「神崎」壁を伝ってきた声はひどく沈んでいた。「寝返りを打つな。大人しく寝ていろ。お前が脚をねじるたび、俺の太腿の内側に火がつく」絵奈は呆れて跳ね起き、壁へ食ってかかった。「寝相まで理事の許可が要るんですか。今、息まで慎重にしていますよ」「俺も動かない。少し我慢しろ。明日までに回す監査企画案が残っている」「その潔癖、本当に……」絵奈は枕に顔を埋め、荒い息をついた。互いの神経が一つに縛られているせいで、怒りも緊張も血管を伝ってリアルタイムで交換される。マットレスの柔らかささえ異質で、落ち着かない。天井を見上げ、掌で額を押さえた。普段なら静かなクラシックを流して一日の疲れを解くところだが、今はどんな些細な音も動きも慎重にならざるを得ない。壁の向こう、六メートル。その狭い間隔で泰輝が息を吸い、吐くたび、空気の圧力が自分の胸郭を軽く押しつけるような同期の残像がする。書類をめくり、ベッドで姿勢を変えるたび、スプリ
惨憺たる失敗の代償は過酷だった。失敗の反動で過敏になった神経のせいで、絵奈と泰輝は裾が擦れただけでも全身に鳥肌が立つ苦痛を耐えねばならなかった。どうにか身なりを整えた絵奈は、合璧印と巻物を箱に収めた。二人はその箱を抱え、美術館の地下駐車場へ降り、泰輝専用の黒いセダンの後部座席に乗った。――カチリ。扉が閉まり、運転手は無言で車を出す。後部座席の両端に張りついて座った距離は二メートルに満たない。安全圏の内側ではあったが、車体が段差を越え、角を曲がるたび、シートの微細な振動が二人のいちばん内密な箇所をねっとり刺激した。「んっ……」絵奈は唇を血が出るほど噛み、窓の外へ視線を固定した。シートの革に太腿が擦れるたび、先ほどの射精の余韻で極度に敏感になった泰輝のものが膨張する感覚が、そのままいちばん深いところを突いた。泰輝も窓枠を砕けるほど握り、顎を震わせる。絵奈の浅い吐息の一つひとつが耳元へ熱く流れ込む。各自で済ませる小細工は通用しない。二人はもう認めねばならなかった。この呪いを解くには肌を合わせ、呼吸を混ぜ、片方が先にも後にもならない同じ瞬間に絶頂へ達しなければならない、という悍ましい真実を。セダンの窓の外を、六本木のネオンが速く流れていく。だが車内の空気は密閉された容器の中のように重く、息苦しかった。絵奈は指先を掻きむしり、呼吸を鎮めようとした。収蔵庫の更衣室で味わった、濃密で気恥ずかしい吐息の残像が耳を離れない。泰輝が射精した瞬間、喉から漏れた獣のような粗い嘆き。その嘆きと同時に中心へ流れ込んできた爆発的な快楽の圧倒。タイミングがずれて失敗に終わったとはいえ、あの刹那の戦慄は、絵奈の頭に消えない烙印のように深く刻まれていた。『狂ってる……私が本当に狂ってる』強く首を振り、心の中で絶叫する。血も涙もない財閥三世の上司、天城泰輝。そんな男と感覚を共有し、吐息を分け、今や一つの屋根の下で二十四時間くっつかねばならないなど、信じられなかった。絵奈のワンルームに寄ってキャリーを詰めるあいだも、泰輝は傍にいた。必要なものだけ入れて出た二人は、再び車に乗った。ほどなく車は、広尾のペントハウスがある建物の地下駐車場に滑るように止まった。専用の超高速エレベーターで一気に上がった最上階。重厚な防音ドアが開くと、都心の華やかな夜景がパノラマに広がる巨大なペントハウス
「理事、正気ですか。各自の自慰でタイミングを合わせろ、と?」絵奈は呆れて乾いた笑いをこぼした。だが泰輝は笑わない。巻物の同じ箇所に指を置き、絵奈の答えを待った。「じゃあ本当に俺と肌を重ね、体を合わせたいのか、神崎」「絶対に違います」「なら選択肢はこれだけだ。神経がここまで同期しているなら、各自自分の体を刺激しても、タイミングさえ噛み合えば脳は同じ絶頂として認識する」泰輝はためらいなく、修復室奥の男女更衣室を指した。絵奈は二つの扉を交互に見た。壁があるからといって信号まで遮られるわけではない。他に方法がないのか問い返したかったが、目の前の秘文は同じ条件しか示さない。ドアノブを握ったまま、しばらく手に力を込めた。薄い間仕切り一枚を隔てた更衣室の距離はおよそ三メートル。十メートルの安全圏の内側でありながら、視覚的には完全に遮断された空間だった。「各自、自分の部屋へ入れ。通話はスピーカーにして、タイマーの音を一緒に聞く。三分以内に射精と絶頂のカウントを合わせる」「はあ……本当に頭がおかしくなりそう」絵奈は頭を掻きむしり、女子更衣室へ入った。カチリと鍵が落ちると、狭い空間に張り詰めた沈黙と、ひどい羞恥が満ちる。壁の向こうで泰輝がベルトを外す重い革の音が、鳥肌が立つほど鮮明に聞こえた。――カチッ。「ストップウォッチを作動した。三分の兆候を始める」スピーカー越しに落ちてくる、低く沈んだ声。絵奈は震える手でスーツスカートをまくり、すでに湿って張りつくシルクのショーツの中へ指を入れた。「はあ……うっ……!」自分の指がいちばん敏感な核に触れた瞬間、壁の向こうの泰輝の口からも、荒い息が喉で詰まる音が漏れた。「くッ……神崎、指の動きが荒すぎる……ゆっくりしろ……」「理事こそ……んぅっ! 手の力を抜いてください……」感覚の完全な同期。絵奈が柔い一点を愛撫する感触は、泰輝の掌の中で跳ねるものへそのまま伝わり、泰輝が自分を強く絞って擦り上げる鈍い摩擦は、絵奈の内壁を容赦なく締めた。――するり、ぬっち。荒い呼吸と粘つく摩擦音が狭い更衣室を満たす。触っているのは自分の体なのに、頭へ流れ込む感覚は完全に他人の野蛮な手つきだった。スピーカー越しの絵奈の浅い息は、泰輝の理性を崖へ追い込む。普段、眼鏡の向こうで冷たく光る目、隙のないスーツの裏に隠れていた女の声が、